君たちの大将は誰だ? 君たちの軍師は誰だ? 豊臣には武神が、いくさ女神が付いていると、誰よりも口にしていたのは半兵衛自身だ。戦意を失いかけた自軍の兵に、あるいは戦の前、士気が高まった彼らを更に鼓舞するために。僕たちの武神は誰だ? 彼女に命を救われたものは数多くいるだろう。あの舞うように美しい姿を見ただろう。迷う必要はない。僕たちには彼女がついている。(そして迷わずに死ねと。)しかし彼女がいくさ女神でありえない、という一人の人間でしかないことを誰よりも知っていたのもまた半兵衛なのだった。
 豊臣の城の前で倒れ付していた女は村娘の格好こそしてはいたが、傍らに落ちていた抜き身の刀は余りにもそのなりに不釣合いであった。聞けば自分の名前以外の記憶を一切失っていると言う。半兵衛は当然のように不審に思った。秀吉に目通りを願った女は一宿一飯の礼に、次のいくさに自分を連れて行ってほしいと請うた。きっと貴君のお役に立ちましょう。秀吉は突然の申し出に渋っていたが、それに乗ったのは他でもない半兵衛だ。前線に投入し、敵方に殺されるもまたよし。自分がついていれば、あちらと通じている素振りを見せたところで泳がすもよし、手を下すもよし。所詮どこの馬の骨とも知れぬ女である。仮に得るものがあったとしても、失うものは何もない。足軽装束に例の刀をぶら下げた女は、しかし半兵衛の予想を見事に裏切ってみせた。一瞬であった。相手方の雑兵を十人単位で切り散らし血の海の真ん中で立ち尽くす女に言葉を失った半兵衛は、返り血一つ浴びていない白い横顔が泣きそうに歪むのを確かに見た。女は見つめる半兵衛に気付くと、眉を寄せて美しくもない微笑を作った。
 豊臣が恐ろしい人材を手に入れたという噂は瞬く間に各地の有力者の間を駆け巡った。兵たちの士気は否が応でも上がっていった。度重なる功績を目の当たりにした秀吉は、俸禄などいらぬと言う彼女に城の一室を与えた。いくさ場以外での彼女は虫も殺さぬほど大人しく、当てもなく庭を歩き回ったり、そうでなければひねもすぼんやりとして窓から外を見ていた。兵どもはいくさ女神と彼女を崇め、女中たちは触らぬ神に祟りなしと遠巻きにし、彼女は名を上げたところで一人きりだった。三度目のいくさに勝利を齎した晩、半兵衛は彼女を自室に呼びつけた。
「何が目的だい?」
「・・・・・・お役に立ちたいの。それでは駄目?」
 腹が立って力尽くで押し倒してはみたものの抵抗すらしない。屠殺される家畜の目で半兵衛を映す女は、すきにしてください、と瞼を下ろした。
「どうせわたし、人をせない」

 鬼神の強さを持つが故に虚無的な女であった。知ったような口をきく、かっとなって半兵衛は彼女の頬を平手で打った。一瞬の後に我に返ったが、女は特に怒る様子も見せず、城の前で行き倒れていたあの日のようにただただ黙って転がっていた。その次の日から半兵衛は、何かにつけ彼女と行動を共にすることにした。最初は無表情に半兵衛の傍らに突っ立っていたいくさ女神は、日を追うに連れ人間らしい感情を取り戻していくかのようだった。美しい反物や、繊細な細工の簪など、半兵衛が彼女に贈ってやったものは多々あったが、なにより女が喜んだのは庭の名もない花であった。折りとって髪に挿してやると丸きり少女のように頬を染めて笑う。恥ずかしいから口に出さなかったが花が好きなのだと言い、半兵衛は彼女が庭をうろつく意味を知った。
 女の内面を知るほどに半兵衛は血に塗れる彼女に違和感を覚えるようになっていった。半兵衛の心に残るのは、人を斬る度に泣きそうに顔を歪めるいくさ女神であった。最初のいくさのときからそれはちっとも変わることなく、それでも彼女は誰よりも多く人を殺すのだった。もういい、と二年が経って半兵衛は女に告げた。彼女の働きとそれに伴う士気の高揚によって、大局はかなり豊臣に有利に動き始めていた。どうして、どうしてと女は泣き出しそうな勢いで半兵衛に縋った。二年の間に人らしい感情を見せるようになっていた彼女だが、ここまで激しい感情を露わにすることは珍しかった。
「もうわたしはいらないって言うの」
「違う」
「だって」
「君は武神なんかじゃない。そうだろう? 人を斬るのは、苦しいだろう。君は一人の人間で、僕の愛しい女だ」
 していると告げると女は本当にほろほろと泣き出した。半兵衛に抱きしめられながら女は請うた。次のいくさで終わりにしますから。半兵衛は一も二もなく頷いた。刀を持たないことを約束させ、彼女を本陣に置いた。半兵衛の友愛する主君と一緒ならば危険なことは何も起こるまい。どしりと構える秀吉とその横で小さくなっている女の凸凹加減にひとつ笑って、半兵衛はいくさ場に出た。

 本陣に戻ると血の海だった。地面を赤く濡らすいくつもの肢体は、恐らく抵抗する間すら与えられずに殺されたのだろう。床机に腰掛けた彼女が退屈しのぎに足蹴にしている小山のような体は、間違えようもなく豊臣秀吉その人であった。秀吉を傷つける者へと条件反射で向けた得物は、白銀の刃より底冷えのする無表情にかち合った。
「竹中半兵衛ごときが、敵うと思ったの? わたしが戦うのを何回も見たくせに」
 半兵衛が咄嗟に、やはりか、と考えたのを察したのか、女は立ち上がるとあっという間に半兵衛を切り伏せた。何回も見たくせにと女は吐き捨てたけれど、半兵衛の記憶にあるよりも数倍速い動きであった。これが本当にあのだろうか。足蹴にされるのは、今度は半兵衛である。月夜の晩に庭で目にした今にも壊れてしまいそうな彼女、愛してるの、わたしも愛せたの、と涙を流した彼女、秀吉が天下を取ったら、と祝言を仄めかした夜に照れくさげに身をよじった彼女、その面影は影も形もない。これでは最初のいくさ場に逆戻りしたようではないか。ただ異なるのは、転がっているのが半兵衛を初めとする豊臣の武士たちであるということ、人を斬っているのに女が泣きそうな顔をしていないことである。倒れる前に目に入った能面のような無表情は、全身の毛をよだたせるほど美しかった。頭に過ぎった最悪の想像を打ち消そうと数秒の間にいくつもの可能性を考えてはみたが、かなしいかな、半兵衛の軍師としての直感は正しかったことを補強する結果にしかならなかった。半兵衛以外にこんなまだるっこしい真似をしてみせるのは。徳川はこんなやり方は好まない。毛利ではこの女を扱うに器が足りぬ。やはりか。
「松永か?」
「頭は働くようで、なによりね」
 否定のないのを肯定と取り、半兵衛は痛みに疼く思考をどうにか巡らせた。は松永久秀の間者であった。いつから通じていた? 子どもでもわかることだ、記憶を失ったと言って城の前で倒れていたあのときから彼女は松永の人間であったに違いない。では、どこからどこまでが本当だった? 半兵衛に見せた弱い姿は、どこからどこまでが偽りだった?
「全部よ」
 と女は面倒くさそうに言う。
「全部うそ。人を斬るのなんて豚を殺すのとおんなじ。花なんてなよなよしていて嫌い。あなたを愛してなんて、いなかったわ」
 その通りだろう。半兵衛の前で見せた笑顔も、泣き顔も、すべて彼を取り込むための演技だったのである。それは別に構わない、と半兵衛は思った。彼女は女として、間者として為すべきことを為しただけだ。たまたまその相手が自分だっただけで、むしろ、秀吉が相手でなくてよかったと安心さえした。地面に這い蹲っているからわかる。秀吉にはまだ息がある。彼女はきっと秀吉を手にかけることはしないだろう。虫の息でも連れて帰り、首を落とすなり交渉の材料にするなり、松永の下知に従うであろう。他人の下で名を上げたいくさ女神を手元に置き、そうして松永はこの国を我が手にするだろう。半兵衛の死んだあとの世界を。
「では君は、松永を愛していたんだな」
 茶器を愛する男だと聞く。その盲信的な愛情は彼女に向けられ、気に入りの茶道具を愛玩するように扱われ、彼女もそれに応えたのだろう。あるいはやはり彼に愛されることなく、他の男に対する一方的で激しい愛情を抱えて、半兵衛に抱かれていたのかもしれなかった。それでもいい、あれだけが偽りでなければ。松永に見せた姿の再現でさえあれば。あの晩半兵衛の腕の中で人を愛することができたと泣いた彼女だけは、たとえその相手が自分でなくとも、偽りなどではないと半兵衛は信じたかった。
「意味がわからない。愛するって、何?」
 心底どうでもよさそうに呟いて女は刃を半兵衛の首筋に添える。それでは彼女は誰をも愛していないというのか。あの涙はすべてが嘘の滴りで、彼女は人を愛することを知らないままだと言うのか。そんなのは、あまりにも酷すぎる話だ。首を落とされる瞬間、半兵衛は彼女を思って人知れずそっと泣いた。僕がいなくなっても、誰か彼女をしてやってくれ。血に濡れた花弁の名もなき花だけがそれを見ていた。



(帰る場所なんて最初からなかったよ)




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(title by わたしのためののばら)(0306)
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