魔王の妹をこれ以上の戦渦に巻き込んでおいて知らぬ顔をするのは、人の道に反する行いだ。何より彼女は第五天、野放しにしておけば残党の旗頭として祀り上げられるのはわかりきっていた。あの純粋な巫が、刑部の舌先三寸に誑かされるのを見ていられなかった。彼女の予言は信じるに値するもので、味方につければ心強い。雑賀に西と契約されるとこちらの不利になる。ただでさえ彼女の先代は太閤と因縁深く、三代目の動向に気を配るのは言うまでもないことなのだ。 「うん、そうだね、私は何の役にも立たないしね」 「!」 咎めるように声を荒げてしまったことに気付いて、改めて己の心を落ち着かせる。お市を、巫を、孫市を東に迎えるため北に南に奔走したことで、結果としてよい人であるをほったらかしにしておいたのは事実であり家康の非なのだ。女の些細な悋気をかわいらしいと思えど、ここまで頑なな態度を取られると参ってしまう。彼女らを迎えたのは天下分け目を制するためであって、異性に対するような惚れた腫れたは一切ないのだとも当然理解しているものだと思っていた。そもそも彼女らはあまりに個性が強すぎて、大層失礼な話だが誰か一人を傍らに置いたとしても家康の求めるものは決して得られまい。家康にとっても久々の帰城なのだから、こんな話はさっさと終わらせてに膝枕の一つでも強請りたいというのが本音だ。顔を強張らせているの肩を引き寄せようとすると、すげなく捩った体でその手を避けられて思わず苦笑が漏れた。 「なあ、寂しい思いをさせたワシが悪かったよ、この通りだ!」 一歩退いて畳に額を押し付けるように勢いよく頭を下げる。彼女の機嫌を取るためにふざけて家康が下手に出れば、どんなに膨れていてもは吹き出してなし崩しに諍いが終わる、それが二人の間の作法だった。しかし今回はいつまで経っても彼女の許しが出ないのをいぶかしく思って顔を上げると、目を伏せそっぽを向く彼女は家康の道化を見てすらいない。困惑よりも苛立ちが勝り、らしくなく乱暴に家康はの細い肩を掴んだ。びくりと大仰に震えたのが手の平越しに伝わる。 「あの人たちとおまえは違う」 「そうだね、私は予言も鉄砲も使えないし、織田の娘でもないもんね」 「違う、そうじゃない! 本当はわかっているんだろう、どうしてこうも聞き分けてくれないんだ」 「家康だって私のことわかってないくせに、なんで私ばっかりわからなきゃいけないの?」 うんざりだと言いたげに吐き捨てたはあまつさえ溜息までついてみせる。まるで知らない女を相手にしているようで、彼女の冷たい声音に逆らおうと固い体を無理に正面から抱きすくめたが、すっかり反応がない。ここまで臍を曲げた彼女は長い付き合いで初めてだった。凍りついたような彼女の心に何と言ったものかと思案していると、ややあっての方から口火を切った。 「好きな人ができたの。家康がいない間に慰めてくれた人。ごめんね、家康、もう」 ゆっくりと言葉の意味を脳味噌で咀嚼した後、家康は腹の底で焼ける衝動のまま腕の中で身を固くする女をこのまま抱き殺してしまおうかと思った。主の留守にその女を寝取るなど一兵卒では適わない所業だろう。留守居を任せた将の中に己の女を奪った男がいるならば一族郎党撫で切りにされたとて文句は言えまい。もで頭の悪い、もう少し聡いものかと思っていたが。彼女の男は日の本を背負って立つために力を注いでいるのだ。多少の寂しさはあれどどうしてそれが己だけの感情だと思い上がることができるのか。これだから女は面倒だ、いつでも自分が悲劇の主人公のような顔をして酔っていなければ気がすまないのだから。彼とて本拠を離れ人恋しいときはある、愚痴を零したいときも、心の内にひた隠した孤高を慰めて欲しいときだってある。ミズコは家康に人としての感情はないとでも思っているのか。あの三人のように強く美しい女を側に置く、英雄のような、男だとでも、思っているのか。知らず腕に力を込めてしまっていた女の体は息が上がっていて、まるで行為の最中のようだと思えば以前と変わらず劣情を催す。遠い空の下で家康が彼女のことを考えている間にもその男に抱かれていたのだろうかと考えると、無理矢理にでも体を暴いて己のしるしを刻み付け、世迷いごとを言ってごめんなさいやっぱりあなたしかいないのだと涙で乱れた顔で言わせてやりたかった。 女の両肩を掴んでその軋む体を引き離す。家康は笑っている。 「そうか、ワシでは力不足だったんだな。どうか幸せになってくれ、」 は顔を真っ青にして、苦虫を噛み潰したように表情を歪めてゆっくりと彼の前を辞した。当然家康はその背を追うことも、手首を捉えることもしなかった。これでいいのだろう。己がそうあろうとした徳川家康ならばきっとこうして彼女を送り出すのだ。彼女が見ていた家康の姿は果たしてそれに等しかったのだろうか。今となっては考えるべくもないが、家康もも普通の恋愛がしたかっただけなのだ。さすがに脱力して、ごろりと畳に体を預けて額を押さえていると、入れ替わりに渡ってくる複数の足音が床を揺らした。 「家康さん、ちゃんどうしたんですか? すっごく顔色が悪かったですよ」 「どうせまた機嫌を損ねるようなことを言ったのだろう。女心の機微に疎いにも程がある、この鴉め」 「ねえ、あの人を殺せばいいの? そうすれば光色さんは困らない?」 女は星の数ほどあれど、とは誰が謳ったのだったか。色とりどりの明るい星に囲まれてかしましく騒がれるのは今ばかりは御免被りたかった。そもそもこの美しい星たちが家康のことを夜空に光る月として見ることは天地が引っくり返ってもないだろう。彼は彼女らにとって陽光でありそれ以上でもそれ以下でもないのだ。 「悪いが、一人にしてくれないか」 ようやく搾り出した言葉に、この期に及んで普段通りの太陽の笑みを添えてしまうのだから家康という男は救いようがなかった。 |