「小十郎、近う寄りなさい」
 女が名を呼ぶのにやや離れた場所に控える小十郎は畳に擦りつけた額を上げなかった。見えないところから彼女の苦笑が聞こえる。いかに大殿の側室直々に命じられようと、小十郎は彼女と必要以上に、いや必要最低限すら親しくするつもりはなかった。そのためなら年の十も違わぬ小娘に頭を垂れるほど、女に対する生理的な嫌悪があった。嫌悪というより底知れぬが故のもの恐ろしさと称したほうが近いか。若いなりに聡い小十郎は自分がこの女に恐怖を感じていることを自覚している。男の己には決して真似できないやり方で身を上げた女は、美しいだけではなく彼に想像できない何かを持っているに違いなかった。
 聞くところによると攻め落とした中野の家臣の娘だとか、いや都から落ち延びた公家の落とし胤だとかまことしやかに噂されていたが、十六の小十郎からしてもその六つばかり年かさの女はただの小娘にしか見えなかった。これが大殿の新たな妾の座に据えられてみて、奥方の気に障らないはずもない。お家の内々のことまでは単なる小姓の預かり知るところではなかったが、案の定ひと悶着あったらしくその末には正室の目に留らぬ西の離れを与えられた。
「小十郎なんて放っておけばいい! ねえ、これは?」
「どれどれ、あら、お上手。梵天丸さまは本当によくできるお子でいらっしゃる」
 幼い主のはしゃいだ声にそっと身を起こす。室の出入り口を背にして座す小十郎の目に、年相応の笑顔で書の稽古をした藁半紙やら書付けやらを女に見せている梵天丸が映った。は柔らかな表情で、いちいちそれらを手に取っては丁寧に褒めてやっている。小十郎の心情とは裏腹に世継ぎの梵天丸がこの妾に懐いたのは、も彼と同様に義姫から疎まれていたためだろうか。常に主の傍らにあった小十郎は、警戒心の強い手負いの獣のような子どもが徐々に女に心を許していく過程を誰より近くで苦々しく思っていた。女は梵天丸の潰れた右目に眉ひとつ動かさず、初めまして若さまとにこやかに迎え入れた。そちらの方がよほど胡散臭いと小十郎は思う。実母である義姫が梵天丸を厭うのを苦々しく思わないわけではないが、まだ人の母らしい、言ってみれば女の理屈に基づいている分、同意は決してできねどもその悪意に対する回避も反撃も可能だ。この西の座敷に何の用向きか義姫が訪れたとき、たまたま彼らは居合わせたことがあった。梵天丸が出された茶と菓子に手をつけようとすると、ぴしゃりと義姫が窘める。
「何が入っているやら知れませんよ。仮にも伊達の世継ぎが、軽々しいことをなさるな」
「でも、この間は・・・・・・」
「ああ嘆かわしいこと。腹の中からすっかり下賤に染まってしまうとは」
 いくら生みの母とはいえあまりの言葉に小十郎は腰を浮かせかけたが、義姫に対峙する目を細めた女が彼の動作を思わず止めさせた。彼女の目を見た瞬間に、この女とまともにやりあっても無駄だと容易に察しがついた。義姫も同じ心持ちだったのだろう、茶に手を付けぬまま梵天丸に一瞥も寄越さずに去り、重たい空気から逃れるように梵天丸も小十郎を伴ってそれに倣った。渡り廊下から座敷を振り返ると、湯呑の中身を庭に捨てていると目が合い慌てて視線を正面に戻した。やはり、目を細めていたのである。
 彼女が正室に嫌われるのにはもう一つ、明確な理由がある。に目をかけられたものは武官にせよ文官にせよ、また女中にせよ庭師にせよ、揃って立身の道を行った。目をかけるといっても通りすがりに名を尋ねられる者から使いを命じられる者まで様々だったが、程度に違いはあれ例外はない。逆に言えば彼女が気に留める者とは、本人すら気付いていない何かを持っているのであった。人の隠れた才を見抜くのが格別うまい女で、この女が妾となったのもあるいはそういう由縁があったのかも知れぬ。そんな女が嫡男である梵天丸と親しくしていれば、義姫の立てる弟君から人が離れていくのは自明の理である。だが小十郎が苦く述懐するに、彼の年若い主はこの女に見いだされずとも十分に聡明で伊達を継ぐにふさわしい男であった。だからこそ小十郎はこの女のことを気に入らなく思うし、また彼女が小十郎に構いたがるのなど迷惑以外のなにものでもない。たとえ主の不興を買おうと、たとえ己一人になろうと、この女に迎合するまいと心に固く誓っている。手を付けていない湯呑は目の前でだんだん熱を失っていく。主と同じ場でものを口にしない律儀な小姓の性根の表れだと曲解してくれていればいいが(少なくとも「またか」と毎度目を吊り上げる梵天丸はそう思っているらしい。)、恐らくはすべてをわかっていながら毎回三人分の茶を用意する。小十郎が己の手の内に落ちるのを目を細めて待っている。そうはいくか。俺はおまえのものには絶対にならない。ぎり、と眉根に力を入れて部屋の隅から女を睥睨すると、それを予測していたように彼女が視線をこちらに寄越した。ぎょっとした小十郎に見せつけるがごとく、女の手がことさらゆっくり子どもの髪に触れる。
「不敬だ! お若いとはいえお世継ぎに!」
 反射的に畳を蹴って、小十郎は女の細い手首を捻り上げた。さしたる抵抗なくされるがままになっているを見て、ようやく状況が把握できたのか、呆気にとられていた梵天丸が見る見るうちに顔を真っ赤にして小十郎に噛み付く。たとえ不興を買おうと、たとえ己一人になろうと、俺はこの子どもを守らなければならない。
「どちらが不敬だ! この人は俺の、・・・・・・いや、父上の側室だぞ」
「梵天丸さまに対するこの女の態度、側室だろうが目に余ります。こればかりは、ご理解ください」
「小十郎のくせに、俺に指図するのか!」
 梵天丸の感情の起伏は激しい。幼いながら野生の獣に牙を向けられたようなその迫力に小十郎の背には汗が流れたが、何と言われようと引くわけにはいかなかった。ここで許してしまったらこの女は梵天丸を使ってどこまで成り上がることだろう。それになによりこの得体の知れない女の指が、己の主に触れることが敬も不敬もなくただただ不快で、恐ろしかっただけなのだった。手首を取られたままの女が小十郎を見上げて微笑する。痛みに対する苦悶も恨みも、なにもなかった。ぞっと蛇に睨まれた心地がしての手を振り払う。小十郎が汚物のように投げ出したその手で、今度こそ女は梵天丸の頭を宥めるように撫でた。
「梵天丸さま、お怒りになってはなりませんよ。小十郎はあなたさまのことを何より大事に考えているのです。そのような者を己で遠ざけるようなことをしてはなりません」
 そう噛んで含めて言い聞かせ、呆然と立ち尽くす小十郎を振り仰いで、女は初めてその顔から笑みを消した。

「おまえもかわいがってやろうと思ったのに」

「小十郎は! どうでも! いいだろーっ!」
「もちろんです。わたしが今いちばんかわいがっているのは、梵天丸さま、あなたですよ」
 ぱっとの視線が膝に飛び付いてきた梵天丸に向けられ、小十郎の指先にはようやっと体温が戻ってきていた。唇を噛んで一歩退き、本当の母子と見紛うほど仲睦まじい主と女から目を逸らす。そのまま地獄のような時間がどれだけ流れただろうか、いつの間にか女の膝に突っ伏して寝てしまった梵天丸の口から、母上、という言葉がこぼれた。女の手は彼の頭を撫でながら、ときどきいたずらにその首元を、さながら絞め殺してやろうとでも言うようにいたずらに彷徨うのだった。小十郎が膝の上で握りしめた拳はとうの昔に内側から破れて血をにじませている。これ見よがしに女は含み笑う。
「おまえはなかなか見込みがあるというのに」
「・・・・・・梵天丸さまは、俺が、守る」
 女は声を潜めて、囁くように、ばかな子、と笑った。の指が小十郎の髪の上をそっと行き来して、己の無力に視界が滲む。きっとこの女には死んでも敵わない。たとえ死んだところで賽の河原で石を積む羽目になるだけだ。まともな人間が母を殺すことなど、できるはずはないのだから。

子宮に還れ

 

 

 

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(title by 浮世座)(0828)

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