赤襦袢の白い足をお嘗め
 今になって思い返すに、少なくとも幸村は彼女に対して悪印象を抱いていなかった、はずだ。そう、まだお互いに幼いみぎり、一番初めの本当に初対面の際、幸村は彼女に好意すら覚えていたのだ。女子のか弱き身にてお館さまのために武を上げたいとはなんという見上げた志、共に励もうぞ、自分と同じ意志を持つ相手を女とも思えずがっしと強く手を取ると、も興奮に白い頬に朱をのぼらせて、はいと勢いよく応えた、そんな健気な少女に悪意を持とうはずがないのだ。稽古を見てやると女だてらに筋がよく、しかしやはり堪えるのは女の体、悔しさに涙を滲ませた日もあったが、泣く彼女を叱咤激励し、時に語り合い、時に飲み交わし、彼女が主の目に留まりその名を戦場に響かせるようになるまで、傍で支え見守ってきたのは幸村であった。佐助あたりは二人の仲を変に勘繰りからかってきたものだが、幸村にとってはかわいい妹分、いや弟分のような存在で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 彼女を疎ましく感じるようになったのはいつだろう。彼女と共に過ごす時間が増えるにつれ、気詰まりや些細な引っ掛かりを延々と引きずるようになったのはいつからだろう。幸村の見込んだ通り、いや、誰が想像したよりも遥かに力をつけた彼女は、一度戦に出ると下手を打てば幸村より功を立てた。女という身の上であの戦働きとあっては周囲がもてはやさないはずがないと頭では理解したつもりではいたが、同じだけのことをしていざ彼女ばかり評価されると気持ちのいいはずがなかった。また、彼女が驕ることなくいつでも幸村を立てるのがなにより腹に据えかねた。彼女が腕を上げたのは幸村の指導の賜物などではない、勝手に彼女が成長したのではないか。当の本人にどうしてそれがわからないことがあろう。それでも周囲は彼女の言葉を真に受けて、さすが真田どのと矛先を幸村に向けるのであった。美しく育った彼女には嫁入りの話が引きも切らず、信玄公直々にいくつか縁談を回されているらしいと佐助から聞き、早く嫁いで男の真似など止めてしまえ、と幸村は思っていたものだが、彼女は幸村の前ではちらともそんな話を出さず、あにさまあにさまと彼の後ろをついて回るばかりであった。
「俺さまも、お仕事だからさ」
 佐助はいかにも申し訳がなさそうに眉を下げた。彼がこのような態度に多少なりとも傷付く情緒溢れる忍びであるとわかっていながら、幸村はさして興味のない体を装って適当に首肯した。佐助の所属はあくまでも武田であり、真田ではない。彼の異動は以前にもないことはなかったが、今回の話はまた幸村にとって別のことだった。ことの発端は先の戦でが例によって例のごとく手柄を立てたところに始まる。隣国の城を見事な手際で攻め落とした彼女は、褒美としてその城主の領地をそっくりそのまま与えられた。そうすると今までの城主に代わって政を行わねばならぬわけだが、なにぶん知識としては武田付きの学者先生が揃って認めるほど申し分なくとも、実践するのとでは話が違う。既にすっかり一人で上田を治めることができる幸村の、忍び兼市井の耳兼お目付け役を、お下がりとして彼女に貸してやることになったのである。半年ばかりして上田に戻ってきた佐助は、が姫殿さまと民に慕われているのが自分の助力のおかげであると得意でならない様子であった。だが佐助も口ではそう茶化しながらも、彼の助けなど借りずとも自然と彼女は一城の主になっていたであろうことをわかっているようだった。所領の治世が安定したということは、彼女は遠からず再び戦場に舞い戻るに違いない。そうして手柄を立てて、今度は何を与えられるのだろうか。彼女が今治める土地はあくまでも新たに侵略した土地である。武田の旧領が、彼女の功に見合うだけ惜しげなく与えられたら、と幸村は自分の想像に背筋を冷やした。いつか、奪られる。幸村の土地も、民も、家臣も、いつか彼女のものになる。
は何が所望だ?」
 宴の席であった。つい一昨日に勝利を飾った戦の、身内ばかりの祝賀会のようなものだった。かつては間違いなく幸村より下座にあったはずの彼女の席は、いつの間にか幸村と対等に並んでいる。彼女が幸村を立てるから追い越さないだけで、そうでなければとっくのとうに彼女は信玄公の最も近くに座していたことだろう。そのことに気付いてしまってからは酒がまずくて仕方がなく、量を飲んでも全く酔わなくなった。主が上機嫌に彼女の欲するところを尋ねると、は下を向いてしばらく黙っていた。その横顔を肴に苦いだけの酒を胃に送り込みながら、お館さまもよくこんな小娘を重用するものだ、とやっかみ半分に苦々しく思う。聞くところによると縁談もあらかた断り、巷では彼女はもう嫁に行く気がないのだとまことしやかに囁かれている。戦場で死ぬのは男だけに許された散り際であろうに。ふと彼女が幸村をじっと見つめているのに気付いて、口元に運びかけた杯を下ろした。どうした、と上辺ばかりはかつてのように問う。
「私は、あにさまの・・・・・・幸村さまの嫁になりとうございます」
 瞬間周りが幸村を置いてどっと沸き立った。主は呵呵と笑いながら「天晴れ!」と繰り返し自分の膝を打っている。隅に控えていたはずの佐助が、やったな旦那、と幸村の背を不敬に叩いた。武田の家臣たちも口々に、真田どのがまともに喋れる女子など他にはおらぬ、と頷きあっている。と幸村の二人だけが、時間が止まっているかのようであった。耳まで真っ赤になって俯いてしまった彼女を見ながら、夢であってほしい、と手にしていた杯を一息で干した。長い長いお膳立ての挙句彼女の得たものはすべからく幸村のものとなり、なるほどおまえは俺すら奪おうという。この場で女の決死の申し出を断れば非難されるのは己だ。酒精が体の限界を超えたらしい、体が後ろに倒れて視界が徐々に霞んでいく。目眩がする

 

 

 

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(title by 浮世座)(0225)

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